伝統芸能共育コーディネーター 連載エッセイ

【七十七回】柴垣治樹 先生(第20回)
雅楽の曲目解説 第20回「太平楽(たいへいらく)」

 太平楽は武具を用いて勇壮に舞う左方の武舞(ぶのまい)のなかでも代表的な演目です。

 文徳天皇(もんとくてんのう:在位850~858年)がそれまでの住居から内裏(だいり:天皇の住居となる御殿)に移るのに合わせ、武官の府の1つである左近衛府(さこんえふ)が作ったものです。舞を作ったのは近衛府(このえふ)の常陸澄継と伝えられていますが、中国の王朝・秦(しん:紀元前778~紀元前206年)末の武将、項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)が会見した鴻門の会(こうもんのかい)で舞われた剣舞(つるぎのまい)が元であるとの伝えが広がっています。

 近年では、武舞の代表として「萬歳楽(まんざいらく)」とあわせて天皇の即位の礼では必ず舞われています。

 太平楽の曲と舞の流れは(1)「太食調調子(たいしきちょうのちょうし)」、(2)「道行(みちゆき)」、(3)「破」、(4)「急」、(5)「重吹(しげぶき)」からなります。全て演奏すると40分くらいの演奏時間になります。

 装束は赤系統で、この演目固有の装束である別装束を用います。舞人は、現在演奏される舞楽装束の中でも最も豪華絢爛で複雑な甲冑装束(かっちゅうしょうぞく)を身につけます。着装するものの点数は多く、すべてを合わせると15キロにも達します。それらを着けて約40分間舞うため、舞人にとっては大変な体力を要する演目といえるでしょう。

 両肩につける木製の肩喰(かたくい)は龍頭(りゅうとう)とも獅子頭(ししとう)ともいい、緻密な彫刻、彩色が施されています。

 

[太平楽に対する憧れと魅力]

 太平楽に憧れる理由の一つに装束があります。豪華な装束になり雅楽の装束で一番高価になります。他の伝統芸能はあまり詳しくないですが多分一番高価だと思います。太平楽装束を持っている団体も少なく私も一度しか本番を経験した事が無い曲になります。

 太平楽の魅力は急の舞が太刀を抜き舞人四人が舞う所です。雅楽を知らない方でも鑑賞したら感動し圧倒されると思います。

 太平楽は左舞になるので右舞の私が舞う事は無いですが左舞を一つ舞って良いなら太平楽を選びますね。

 

 是非、エッセイを読み、YouTube等で動画を観ていただき、興味を持っていただきたいです。

  • 太平楽

写真:柴垣 治樹先生

雅楽演奏家
雅楽企画者

柴垣 治樹先生

更新日:2022.09.18

【第七十六回】岡崎美奈江 先生(第19回)
箏曲って? 第19回「光崎検校と五段砧」

 今回は、箏曲「五段砧」(ごだんぎぬた)と作曲者の光崎検校(みつざきけんぎょう)についてのお話です。

 光崎検校(生年不詳-1853年頃)は、19世紀前半に京都で活躍した地歌三味線・箏演奏家であり作曲家です。

  地歌三味線を一山検校(いちざんけんぎょう)に、箏曲を八重崎検校に師事。すでに当時、先の音楽家たちにより地歌三味線音楽の作曲や演奏技巧の開発が頂点に達していた中において、新たな方向を様々に模索した光崎検校は、そのひとつとして、江戸時代初期の音楽である三味線組歌や箏組歌、段物をよく研究し、自らの曲にも取り入れ作曲しました。

 また、三味線はもちろん、箏の名手、八重崎検校の弟子ということもあり、箏にも非常に堪能で、自作曲のうちいくつかは、自ら箏の手を付けており、一つの曲で三味線、箏の両パートを作ったのは光崎検校が最初と言われています。当時、箏が江戸中期以来、三味線の後続として発展して来つつ、いまだ開拓の余地があることに注目し、箏のみの音楽を再び作り出したことは特に重要な功績で、後の邦楽の新たな方向付けとなりました。

 作風は精緻で端正かつ理知的、気品と風格があり、高度な技術が要求される曲を多く作曲、作品の一つ「五段砧」はきわめて複雑精緻に作られた箏の高低二重奏曲です。

 「段」とは<短い楽章>のことで、「五段砧」は曲名の通り、5つの段(短い楽章)が連なった曲です。

 「砧(きぬた)」とは、昔各家庭で夜に行われていた、布を叩いて、シワを伸ばしながらツヤを出す、その道具や作業のことを指します。

 その音は、秋の夜に遠くまで響き、いかにも秋らしい趣を表すものとして、様々に音楽化されています。「五段砧」は、砧の音楽的リズムを基本に、様々な手法や旋律で編曲されている曲です。

 

<歌詞>

花は吉野よ

紅葉は高雄、松は唐崎、霞は外山

いつも常盤の振りは、

さんざ、しらおしや  

とにかく想はるる

  • 二重奏の様子

写真:岡崎 美奈江先生

箏曲演奏家

岡崎 美奈江先生

更新日:2022.08.21

【第七十五回】杵屋六春 先生(第19回)
長唄名曲紹介~Vol.19 いつか晴らさん父の仇「五郎時致(ごろうときむね)」

 曲の題名は「曽我兄弟の仇討ち」の主人公のひとり、弟の曽我五郎時致の名前。

 曽我兄弟の仇討ちは、建久4年(1193)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟が父の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ日本三大仇討ちの一つに数えられる。父の仇討ちと伝えられているこの話、実は頼朝を討つのが目的であったとも言われている。

 曽我兄弟の仇討ちは「曽我物語」の流布とともに全国に伝えられ、謡曲・浄瑠璃や歌舞伎などにも広く取りあげられ、この曲も大変人気があり、現在も数多くの演奏会で演奏されている。

 曽我兄弟の兄・十郎には「虎御前」、弟・五郎には「化粧坂の少将」という情を交わした女性があった。仇討ちの成功に加えて、兄弟それぞれの悲恋の物語があったことも、曽我兄弟が江戸時代を通じて人気があった理由だったとも言われている。この「五郎時致」でも、五郎の仇討ちに向けた勇ましい心と、化粧坂の少将の恋に浮かれる様とが交互に唄われていて、勇ましさと華やかさの両方を兼ね備えた長唄屈指の名曲の一つである。

  成り立ちは、天保12年(1841)年7月、江戸中村座初演。大坂下りの二世尾上多見蔵の九変化所作事「八重九重花姿絵(やえここのえはなのすがたえ)」のうちの一つとして作られた。 

 数多い曽我物・五郎物と区別して、別称「雨の五郎」と言われている。

 作詞は一般に中村座の狂言作者である三升屋二三治(みますやにそうじ)とされている。作曲は十代目杵屋六左衛門(きねやろくざえもん)。

  • 曽我兄弟十番切図

  • 曽我兄弟の仇討ち

  • 曽我五郎時致

写真:杵屋 六春先生

長唄・唄方

杵屋 六春先生

更新日:2022.07.18

【第七十四回】五條美佳園 先生(第19回)
日本舞踊・ちびっこほのぼのエピソード集「第19回〜いつだって発表会〜」

 北名古屋市にある平田寺にて、毎年春に行われる子どもたちの日本舞踊教室&発表会。私の師匠・五條園美先生から指導役を引き継ぎ、今年無事に第14回目の発表会を開催致しました。3歳〜大学生までの子どもたちが日本舞踊を通して和の文化に親しみ、親御さん方にもその素晴らしさに気づいて頂ける素敵な機会です。

 毎年参加してくれる子どもたちに加え、今年は初参加の子どもたちも大勢で、とても賑やかなお稽古になりました。その中で、まだ幼稚園生の可愛い女の子が、ちょっぴりはにかみながらも楽しく熱心にお稽古していました。しかし、ある日を境にママの傍から離れず、皆と踊らなくなってしまったのです。傘や扇子の小道具で誘ったり、彼女の好きな柄の浴衣に着替えさせてみたり…。それでもお稽古の輪の中に入ろうとはしません。ただ実は、皆が退室した後に私が誘いかけると、彼女は必ず1~2回一人でお稽古をしていました。皆が踊る様子を1時間ずっと真剣に見ていたからでしょう、振りも完璧に覚えています。

 そして発表会当日を迎え、本番の着物を身にまとい、お化粧もして準備万端。いよいよ彼女の出番になりました。でも残念ながらお客様の前には出ないまま発表会は終了、会場は撤収が始まりました。(もしかしたら今日も…)そう思って傘と扇子を渡すといつもの笑顔がこぼれました。彼女の発表会の始まりです。洋服に着替えた子どもたちが音を聞きつけて「私もやりたい!」と集まってきました。その踊っているときの皆の幸せそうな笑顔が今でも目に焼き付いています。

 『いつだって発表会』~その子一人ひとりの『今この時』に合った発表の仕方~があっても良いのではないかと思います。お稽古や発表会などの様々な経験が一人ひとりの自信に繋がり、着実に成長していくのです。そして私にとっても、日本舞踊を通して子どもたちの成長にささやかながら寄り添わせて頂けることはとても幸せなことだと感謝しています。

  • 幼稚園生の稽古風景(3~6歳)

  • 幼稚園生の稽古風景(3~6歳)

  • 先生のお話をよーく聞いています

写真:五條 美佳園先生

日本舞踊五條流師範

五條 美佳園先生

更新日:2022.06.10

【第七十三回】柴垣治樹 先生(第19回)
舞楽の曲目解説 第19回 「胡蝶(こちょう)」

 胡蝶は、子どもによる舞が特徴の右方の童舞(わらわまい)です。

 延喜6(906)年、宇多法皇(うだほうおう)が子供の相撲を観覧する時に、藤原忠房(ふじわらのただふさ)が曲を、式部卿敦実親王(しきぶきょうあつざねしんのう)が舞を作ったといわれています。

 『迦陵頻(かりょうびん)』の答舞(とうぶ:先に演じる左舞の対となる右舞)として、昔から寺院の法要などでよく奏される子どもが舞う童舞(わらわまい)の1つです。女性の大人が舞うことはありますが、大人の男性が舞うことは無い曲です。

 舞楽胡蝶の次第は、(1)「高麗小乱声(こまこらんじょう)」、(2)「高麗乱声」、(3)「小音取(こねとり)」、(4)「当曲」からなります。

 まず、高麗笛(こまぶえ)の独奏と太鼓、鉦鼓(しょうこ)による「高麗小乱声」が前奏曲として奏され、舞人(まいにん)の登場曲である高麗笛の「退吹(おめりぶき)」、太鼓、鉦鼓による「高麗乱声」と続きます。この間に登台した舞人は舞台に登るときの所作「出手(ずるて)」を舞います。高麗笛と篳篥(ひちりき)の主奏者と三ノ鼓(さんのつづみ)による「小音取」、演目の中心となる「当曲」と続き、最後に舞人は輪を作って4人目の舞人・四臈(よんろう)から順に退出していきます。

 舞人はこの演目固有の子供用に小ぶりに仕立てられた別装束を身につけて舞います。

 緑色系の袍には胡蝶(こちょう)の紋様が刺繍され、背には羽根をつけます。頭には山吹の花を挿した天冠をかぶり、右手に山吹を持って舞います。また、原則的には白塗りの厚化粧をします。

 子どもによる舞のため、舞姿や装束は子どもの愛らしさを強調したもので、舞人の動きにあわせて背中の羽がヒラヒラと可愛らしく揺れます。飛び跳ねながら回って大輪をつくる舞が特徴的です。

[子供の舞なのに難しい舞]

 私は15歳から舞稽古を始めましたので胡蝶舞人の経験は無いです。胡蝶は子供の舞だから簡単かと思う方もいるとは思いますが実は結構難しい舞です。

 胡蝶の舞を一生懸命覚えて舞う子供の姿に勝てる舞は無いと思います。

私も息子が胡蝶を舞った後に走舞(一人で舞う舞)を舞った時に胡蝶の余韻が残っていて何とも言えない雰囲気の中で舞った経験があります。息子が舞ってくれた喜び、私の舞をお客様が見て下さってるけど、心ここにあらず。

 とても思い出に残っている演奏会でした。

 是非、エッセイを読み、YouTubeなどで動画を観ていただき、興味を持っていただきたいです。

  • 胡蝶

写真:柴垣 治樹先生

雅楽演奏家
雅楽企画者

柴垣 治樹先生

更新日:2022.05.19

【第七十二回】岡崎美奈江 先生(第18回)
箏曲って? 第18回「八重衣」

 地歌箏曲、手事物(てごともの)に「八重衣(やえごろも)」という曲があります。地歌箏曲演奏者の憧れの1曲です。石川勾当(いしかわこうとう)により江戸時代後期に作曲されました。

 作曲者石川勾当の三つ物と呼ばれる三難大曲(八重衣、新青柳、融)の1つで、歌詞は、当時大流行していた小倉百人一首から「衣」にちなんだ歌を5首集め、季節順に並べ、最後の歌の下の句(衣片敷き 独りかも寝ん)が反復されています。

 作曲当時は、他の検校や勾当に疎まれ、広く世にでることはありませんでしたが、後年、箏の手付け(箏のパートを作曲)を、京都で活躍していた八重崎検校(やえざきけんぎょう)が行い、再発掘され、屈指の名曲として現在まで演奏されています。

 京流手事物の一大傑作といわれている大曲は、三絃、箏ともに高度な技巧が用いられた難曲で、作曲者自身も上手くは弾けなかったと言い伝えられえるほどです。

 

<歌詞> ※小倉百人一首より

君がため 春の野に出でて 若菜摘む

 我が衣手に 雪は降りつつ

 

春過ぎて 夏来にけらし 白妙(しろたへ)の

 衣干すてふ 天の香具山

 

み吉野の 山の秋風 さ夜更けて

 ふるさと寒く 衣打つなり

 

秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)を粗(あら)み 

 我が衣手は 露にぬれつつ

 

きりぎりす 鳴くや霜夜のさむしろに 

 衣片敷き 独りかも寝ん

 衣片敷き 独りかも寝ん

  • 百人一首

  • 地歌演奏の様子

写真:岡崎 美奈江先生

箏曲演奏家

岡崎 美奈江先生

更新日:2022.04.21

【第七十一回】杵屋六春 先生(第18回)
長唄名曲紹介 ~Vol.18 鎌倉時代に思いを馳せて「賤の苧環(おだまき)」

 源義経と静御前といえば、日本人なら誰しもが知っている悲恋の物語を思い浮かべるだろう。この静御前の伝説を、数々の名曲を生みだした名人、五代目杵屋勘五郎が明治41年(1908)作曲、菊地武徳作詞で舞踊化したもの。「静の小田巻」と表記される場合もあり、同じ曲である。 

 時は文治元年・壇ノ浦の戦いから7ヶ月後、源義経は源頼朝の命を受けた土佐坊昌俊に襲撃され、兄との関係は修復不可能と悟り、挙兵に踏み切った。後白河院に頼朝追討の発令を求め、従わないなら西国で挙兵すると告げ、院は頼朝追討の院宣を下す。その直後、朝敵にされ怒り狂った頼朝が6万の大軍を京に送ると聞き及んだ後白河院は態度を180度変え、頼朝に求められるまま6日後に義経追討の院宣を下す。西国で再起を図るべく大阪湾に出た義経だったが、平家の呪いと臆される暴風に吹き戻され、元々少なかった家臣達とさらに離れ離れになる。「賤の苧環」は、平家の亡霊で有名な長唄の大曲「船弁慶」の後日談といった形で作られた曲といわれている。

 鎌倉時代、京都の白拍子(男装して舞を披露する芸人)だった静御前は、源義経と出会い恋仲になる。実兄・頼朝と不仲になった義経は頼朝から追われる身となり、義経は女人禁制の吉野山(奈良県)に身を隠す前に静御前に別れを告げる。京に戻ろうとした静だったが従者に裏切られ、文治2年3月、鎌倉に送られ、頼朝の前に引き出され、義経の逃亡先を問われるが知らない静には答えようがない。ならばと、源氏の繁栄を祈る舞を鶴岡八幡宮に奉納せよと命じる頼朝(歌詞の中に出てくる『鎌倉殿』は頼朝のこと)。はじめは拒んでいたが、とうとう拒みきれなくなり、しぶしぶ舞う静。しかし静御前が実際には頼朝や源氏繁栄の為ではなく、義経を慕う思いを歌い、強い恋心を舞ったのであった。一同が感動する中、意に反した静御前に頼朝は立腹するが、妻・北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」ととりなし、静御前は許され、褒美を賜ったと言われている。

 歌詞の中で「吾妻鑑」から引用されている二首の和歌がある。「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人ぞ恋しき」吉野山で雪を踏み分け、山深く入ってしまったあの人(義経)の足跡さえも今は恋しい。「しづやしづ 賤のをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」(おだまき=麻糸の玉がくるくる回転すること)「静、静」と呼ばれた昔に戻れたらどんなに良いことだろう。

 別れ別れになってしまった義経への恋心は募るばかりの静御前であった。2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代に起こった悲恋の物語。ドラマにこの曲を重ね合わせていただけたら、また楽しんでいただけることだろう。(参考文献 「吾妻鑑」)

  • 静御前

  • 吉野山

写真:杵屋 六春先生

長唄・唄方

杵屋 六春先生

更新日:2022.04.17

第70回
日本舞踊・ちびっこほのぼのエピソード集 「第18回~初舞台・羽根の禿~御園座珠園会よりPart3」

令和3年5月23日に御園座で開催致しました五條流珠園会。今回はその第3弾、長唄「藤娘」を名披露目として務めた二人のエピソードをお伝えします。

現在中学生の二人は、それぞれ2歳、6歳のときからお稽古を始めました。お稽古場は違えど、お誕生月は1ヶ月違い、そして親戚でもないのに幼少の頃はどことなく顔が似ていたという二人です。性格的にも穏やかで優しくてほんわか。普段口数は少ないですが、集中力があってお稽古熱心なところもそっくりです。

『藤娘』では、できないところを二人で黙々と繰り返してお稽古したり、鏡を見て研究したり、納得できるまで諦めずに続ける姿に、私も胸を打たれることがありました。また、中学生という時期は踊り方の変わり目でもあり、可愛らしい子どもの踊りから、しなやかな大人の踊りに移行していきます。身長も私以上に伸びて、身体の使い方が急に変化していくので二人は人知れず努力をしていたと感じます。

そして珠園会当日、御園座という素晴らしい場所でのお披露目の機会を頂き、精一杯のびのびと踊ることができました。何より、日頃の努力や精進の成果を、皆さまにご覧頂けたことは、二人にとって幸せで素敵な宝物となったことでしょう

そして二人は次の舞台で、長唄「橋弁慶」の牛若丸と弁慶を踊ります。本格的な男踊りに、汗をかきながら張り切ってお稽古をしています。さらに息の合った舞台を見せてくれることでしょう。これからの活躍が楽しみです。

  • 二人での稽古の様子

  • 二人での稽古の様子

  • 披露された「藤娘」

写真:五條 美佳園先生

日本舞踊五條流師範

五條 美佳園先生

更新日:2022.03.09

【第69回】
舞楽の曲目解説 第18回 「迦陵嚬(かりょうびん)」

迦陵嚬は、現在のインドにあたる天竺(てんじく)の祇園寺(ぎおんじ)供養の日に、極楽浄土で仏を供養すると伝えられる鳥、迦陵頻伽(かりょうびんが)が集り舞うのを見て、音楽をつかさどる女神・妙音天(みょうおんてん)がこの曲を奏したといわれています。釈迦の十弟子の1人である阿難陀(あなんだ)が広めたとされ、日本に伝えたのは娑羅門(バラモン)僧正(そうじょう)菩提遷那(ぼだいせんな)といわれています。
かつては「序、破、急」の楽章がそろい、舞もともなっていたようですが、現在は「破」と「急」に曲が、「急」にのみ童舞の舞が伝わっています。
子どもによる舞が特徴の左方の童舞(わらわまい)です。舞の次第は(1)「林邑乱声(らんじょう)」、(2)「当曲(とうきょく)」からなります。
前奏曲「林邑乱声」で4人の舞人(まいにん)は1人ずつ登場します。手にしたシンバルのような打楽器「銅拍子(どびょうし)」を打ち鳴らし、飛び跳ねる動作を繰り返しながらそれぞれ所定の場所につきます。「当曲」は早いリズムの「急」で早八拍子(はややひょうし)、拍子八(ひょうしはち)です。「当曲」の舞が終わると、舞人は再び飛び跳ねる動作で舞台をまわり、1人ずつ退場していきます。
迦陵嚬舞人はこの演目固有の子ども用に小ぶりに仕立てられた別装束を身につけて舞います。
赤色系の袍には迦陵頻伽の紋様が刺繍され、背には鳥の羽根をつけ、足にはすね当てのような長足(ちょうそく)と呼ばれるものを巻いています。頭には花を挿した天冠をかぶり、手には銅拍子を持って舞います。この銅拍子の音は、迦陵頻伽の声を表しているといわれています。また、原則的には白塗りの厚化粧をします。

[宮内庁式部職楽部楽師のステータス]
宮内庁式部職楽部の楽師になるためには基本的には中学校を卒業してから7年間の楽生期間を経て、楽師になります。
22歳から民間人が経験出来ない舞台に立ち経験を積んでいきます。しかし、迦陵嚬は童舞であり、成人男性が舞うことは無いので楽生になる前に経験しないと舞う機会が無くなります。
中学生までに舞わないと一生舞うことが無い舞楽になります。舞うタイミングを逃すと一生悔いが残る舞かもしれませんね。
是非、エッセイを読み、YouTubeなどで動画を観ていただき、興味を持っていただきたいです。

  • 迦陵嚬

写真:柴垣 治樹先生

雅楽演奏家
雅楽企画者

柴垣 治樹先生

更新日:2022.01.24

【第68回】岡崎 美奈江先生
箏曲って? 第17回「箏曲 奈良の四季」

「春の海」の作曲家宮城道雄氏の作品に「奈良の四季」という曲があります。昭和30年の作曲、会津八一氏作歌です。
歌人会津八一氏の養女となられた会津蘭さんが宮城道雄氏のお弟子であったことがご縁となり、この曲が生まれました。奈良を大変愛された会津八一氏が、興福寺や東大寺に通いつめて生まれた「鹿鳴集」所収の短歌四首に作曲したものです。
春・夏・秋・冬の4部分に分かれた曲は冬の部分を除き、各歌に手事があり、地歌箏曲の古い合奏形式の一つである「段合わせ・段返し」が用いられています。
全体的に簡素な印象ながらも、格調高い万葉風の歌とが見事に調和された名曲です。

  • 「段合わせ・段返し」とは
    段合わせ(だんあわせ)は、地唄・箏曲の合奏法の一つです。「六段の調」のような数段からなる曲、または、唄と唄の間にある手事(てごと)で、同拍数の段構造をもつ2つの段を異なった奏者で演奏(合奏)することで、同一曲の異なる段で行う場合と、異曲間の場合とがあります。
    段返し(だんがえし)は、段合わせで合奏したあと、受け持ちを交換して、再び段合わせを行うことです。

[歌詞]
春来ぬと 今かもろ人 行き返り
     佛の庭に 花咲くらしも

初夏の 風となりぬと 御佛は
    小指の尖に ほの知らすらし

斑鳩の 里の乙女は 夜もすがら
    衣機織れり 秋近みかも

嵐吹く 古き都の 中空の
    入日の雲に 燃ゆる塔かな

  • 「奈良の四季」演奏の様子

  • 興福寺

写真:岡崎 美奈江先生

箏曲演奏家

岡崎 美奈江先生

更新日:2021.12.16

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